最近のドラマなんだかつまんなくて見れません。
だから昨日は夜からTSUTAYAに行きました。
昔のドラマが急に見たくなってしまった。
主題歌がドリカムのラブラブラブのやつ。
主演・豊川悦司と常盤貴子のやつ。
ちょっと矢田亜希子出てくるやつ。
何だっけ。
トヨエツが画家の役でイイ演技してるやつ。
矢田亜希子が超ブラコンのやつ。
常盤貴子が手話するやつ。
何だっけ。
トヨエツがグッと渋いやつ。
常盤貴子がトヨエツ好きになるやつ。
でも妹役の矢田亜希子があたしのお兄ちゃんを取らないでー!みたいなやつ。
何だっけ。
ドラマの中で・・耳が聴こえないトヨエツが・・
ずーっと喋れないトヨエツが・・
たしか・・
最終回で・・
常盤貴子探してて・・
見つからなくって・・
すげぇ走って探してて・・
んで やっと見つけて・・
でも声出すのが怖くて・・
常盤貴子呼び止められなくて・・
ああ行っちゃうよ・・呼んで!今!ほらっ!
フレー!フレー!ト・ヨ・エ・ツ!
ガンバレ!ガンバレ!ト・ヨ・エ・ツ!
で、最後すっごい勇気ふりしぼって叫ぶの。
1回も声出せなかったトヨエツが。
常盤貴子のこと呼ぶの。
「エオォォォーーーーーッ!!!!!!」
たぶん、ひろこぉー!(常盤貴子の役名)って呼んでるんだと思う。
もーすげぇー超感動なのよココ。
もー喋れるとか喋れないとか関係無い、魂の叫びなんですよコレ。
トヨエツの声1回も聞いたことないひろこが、呼ばれて振り向くんですよ。
愛の力で。
1回も聞いたことないのに。
好きな人の声ってわかっちゃう。
「あーやべー感動感激・・思い出しただけで涙だよ。」
ってブツブツひとりごと言いながら、
鼻水ぐしゅぐしゅ言わせながらTSUTAYAを後にしました。
で、家に帰って、DVDにセットして、見ました。
【踊る大捜査線~秋の犯罪撲滅スペシャル~】
トヨエツのトの字も無い昔のドラマ。
まぁ~自分でもびっくりですが。
トヨエツ借りてなかった。
たしか4本借りたんですけど、全部、踊る~系。
いやぁ、クールなトヨエツ見たかったね。
ナイスバディー常盤貴子拝みたかったよ。
ワガママ矢田亜希子引っ叩きたかったわい。
そんぐらいの気持ちはあった。
むしろもう俄然!やってやんぜ!
って気持ちは。あった。はず。
・・・・・・。
おかしいね、人の心とは。
さっきまであんなに熱っぽかったトヨエツへの想いが、
気付いたら織田裕二とユースケ・サンタマリアへ。
モロ見事に移行。
いやぁすごいね。
女心って。
秋の空。
超かっけぇ。青島俊作(織田裕二)。
超さいこー。真下正義(ユースケ)。
大好きです。2人とも。(トヨエツより)
マイケル・ジャクソンの追悼式典をテレビで見て、いっぱい泣いたよ。
マイケル・ジャクソンは特に好きな歌手ではなかったけど、涙いっぱい出た。
世界中の人達にこんなに愛されてるんだって「想い」がすごい伝わってきたからかな。
「マイケル・ジャクソンの曲、聴いたことねぇや・・」って思ってたけど、
テレビでマイケル特集を見たら、聴いたことある曲ばっかだったのに驚きました。
小学生の時に子供会の舞台で使ったのは、
マイケル・ジャクソンの「今夜はBeat It」だった。
中学生の時に英語の授業で聞いて英語の練習をしたのは、
ジャクソン5の「I Want You Back」だった。
歌詞が素敵だなぁって思って誰の曲かわかんないのに聴いてた曲は、
ジャクソン5の「I´ll Be There」だった。
・・お世話になってた。
だから泣けたのかしら。あんなに。尋常じゃない涙だったからね。
マイケル・ジャクソンは整形の話とか、
性的虐待のゴシップがいろいろあったみたいだけど、
それでもあんなに最後の最後まで世界中の人達に愛されてた。
死んじゃったら体なんて燃えて消えちゃうし、外国なら埋葬されちゃうし、
人間、見た目とか気にするの、あんまり意味無いことなのかなぁって思った。
みんなマイケルの「心」が好きだったんだと思う。そう思う。
あたしのマイケル・ジャクソンの印象は「繊細」と「純粋」
生きにくかっただろうなぁ、この世界は。
でも生きたかっただろうなぁ、この世界で。
でも生き物の生死は決められないからね。
生まれた時から決まってる。とも言うからね。
むしろ「生まれた時から決まってたんだ。」
とでも言い聞かせなきゃ、あまりにもツライからね。
本当に愛する人との別れとかっていうのは。
一種の自己防衛かもしれないね。
こんな術、他の動物にはないかもね。
なんか、健気。
「人間」って健気な生き物。
そう思ったら、また、ちょっと泣けてきた。
たぶん子供という生き物は純粋で残酷だから。
比較的、女の子は平気なんだけど、男の子が苦手。
空気読まないし、読めないし、扱いづらい。
友達の子供に「しんご」という名前の子供がいる。
年は8歳、小学4年生。
まさに純粋で残酷盛り。
なんか、すげぇ、なつかれてる。
突き放しても寄ってくる。
あっちいけ。つっても、遊ぼう。って寄ってくる。
あっちいけ。
遊ぼう。
嫌だよ。
遊びたい。
だりぃー。
一緒遊ぶ。
っていうやり取りを続けること数か月。
今ではマブタチになっちゃいました☆
相手は8歳。
立派に恋愛相談もしちゃう。
しんごの話も聞いちゃう。
あたし「おめぇ、クラスに好きな娘いんの?」
しんご「いないよ、女となんか遊ばんし」
あたし「しんご、好きな女の子とかいじめるタイプだろ?」
しんご「・・うん」
あたしだってもう恋の味をしめた24歳。
アドバイスだってしちゃうわーい。
あたし「別にいじめんのはいーけどよぅ、
その娘が廊下とかでひとりで重そうなの持ってる時、
さりげなく『荷物持ってやろっか?』とか言えよ?
そーゆうギャップに弱ぇんだから、女は。」
しんご「にもつ・・?」
あたし「そそそ。何でもいーんだよ。カバンでもたて笛でも。」
しんご「ふーん。」
あたし「ギャップだよギャップ。」
あたし「他は~・・帰り道がたまたま一緒になった時とか。
おめぇが車道側歩け。車が危ない方。」
しんご「なんでよー、しんご車に轢かれるやっしー。」
あたし「轢かれねぇよ、何のためのガードレールだよ。
とにかく!女の子に車道側歩かせんな。
俺が守る!ぐらいのいきおいでいけ。
そゆのにキュンとくる生き物なんだから、女っつーのは。」
しんご「・・ふーん?」
あたし「あとは、教室のドア、開けてあげるとか?紳士的に?」
しんご「シンシテキってなんだば?」
あたし「・・しらねぇよ、マミーに聞け。」
こんな感じで結構遊んでるんですが。
最近、なんか、あたし自分が憎いです。
しんごはあたしを名前を呼ぶ時、ストレートに呼びます。
あたしの本名は「なつみ」なんですが、
だいたいの男友達は「なっつー」とか「なっちゃん」とか呼ぶんですよ。
それがしんごは「なつみぃ」って呼ぶ。
ニックネームじゃなく、まんま本名。
やべぇ、なんかドキドキする、無駄に。
こんな自分が憎い。
相手は子供。
相手は8歳。
相手は小学生。
相手はランドセル。
相手は横断歩道を赤で渡れない。
しんご「なつみぃ、あっちで遊ぼう。」
って、手ぇ握ってくる。
やべ。赤い実はじける。
あぁああああぁぁぁぁあああああ。
嫌だー子供って純粋で残酷。
あたしの心のうちを知らないからボディータッチの多いこと。
しんごがせめてあと16歳年取ってたら。
あたしがせめてあと16歳若かったら。
あたしたち結ばれない運命なのー!
とか、もんもん考えてて、今日、しんごとお絵描きしてたら。
「みてみて~なつみぃ描いたぁ。超似てる。」
つーから、どれどれ愛しのしんごや? つって見たら、
でっかく、キン肉マン が描かれてた。
・・・・・・・。
おかしいよね、どう見て、こうなる?
どこどう見て「肉」が見える?
やっぱ子供って嫌いです。
最近では恋とか愛とかすっ飛んでいってしまった。
恋とか愛とかそーゆう次元をゆうに超えてしまったような。
ぶっちゃけもう何を「恋」と言っていいやら、どこから「愛」と言っていいのやら。
さださん家のまさし君が昔こう言ってたなー。
『 求め続けていくものが恋 奪うのが恋
与え続けていくものが愛 変わらぬ愛
だからありったけの想いをあなたに
投げ続けられたら それだけでいい 』
でもさーある種の自己満足だよねコレ。
(※さださん大好きです)
だって、いくら「愛」だからって投げ続けられたらたまんねぇ。
あたしはやっぱホドホドがいいな。
「恋」も「愛」もどちらもホドホド。
「恋」「愛」を絶妙なバランス感覚で求めたいし与えたい。
与えることも大事だし求めることも同じくらい大事だと思うから。
感情に喜怒哀楽があるように、恋愛の喜怒哀楽も必要不可欠。
いくら「愛」してるからって、恋人が浮気してんの黙って見てらんねぇ。
「ボクが好きだからそれでいいんです」って与え続ける愛?
なに、お前ぇそんなの違くねぇ?
それちょっと人として感情死んでねぇ?
ちょっ待て、とりあえず、あたしん家来てサシで話さない?ってなる。
って感じで、最近では特に「愛」についていろいろ考える。
あたしの今まで生きて得てきた愛についての「想い」とか「情報」とか「(数少ない)経験」を。
そういうもの全てを頭の中で総動員してぐにぐにこねくり回して「本物の愛とは」を考える。
「心」は目に見えないけど確かに存在してる。
「恋」も「愛」も目に見えないけど確かに、確かに存在してる。
あたしは「愛」について考えるとき、いつもある友達のことを思い出す。
あたしの友達で「恋に恋してる自分を愛してる」娘がいた。
文字にするとなんだかややこしいけど。
その娘は「自分のこと大嫌い病」だった。
親や恋人に「どれだけあなたに愛されてるか」って試すようなことばっかする娘だった。
その娘の口癖は「死にたい」だった。
でも同時にその「死にたい」は「淋しい」も意味してた。
自分が愛されてる自信が無くて、「あたしのこと愛してるなら助けてよ」ってよく人を試す。
「愛されてるか」確かめるためなら、カミソリも、薬も、武器にする娘だった。
その娘は恋人に「あたしは病気、あなたに迷惑かけたくない、だから別れよう」って言った。
でもそれは恋人の気持ちを試す言葉だった。
その娘は恋人が「自分から離れていかない」ということをよく分かっていた。
分かっててわざと聞いていた。
でもその娘は自分の心に蓋をして見ないふりをした。
誤解の無いように言うけど、あたしは彼女を責めてる訳じゃない。
ただその娘は、無意識でそういうことをしてしまう、そういう「病気」だった。
親にも恋人にも「愛されてる」のを確認するために自殺を仄めかす娘だった。
そのうち親や恋人だけじゃあ足らなくていつしか友達にも「依存」するようになっていった。
どれ程の薬を飲めば確実に死ねるか、と質問されたし、
時にその娘は、あたしに手首を切った写メールを送ってきたりした。
その血はあたしが今まで見てきた血の中でも、もっとも哀しい色をしていた。
彼女の哀しさ、不安、空虚感、全てを織り交ぜた懐かしい色にあたしは泣いた。
あたし自身、昔、そういう時期があったからその娘の痛みは手に取るように分かった。
その娘は自分の憂鬱な状態がどんなものか、を、嬉々として語った。
そして、やけに「つらい話」をしたがった。
自分が今どんな状態で、どんなにキツイか、を感情を込めて何時間でも話した。
あたしは吐き出されたその「言葉達」が空を舞うのを何時間でもただ見つめ続けていた。
空中に吐き捨てられる「哀しい音楽」の音符達。
そしてあたしはそれをただ抱きしめ続けた。
「病気である自分」は人から心配される。
「心配される自分」=「愛されてる自分」の居心地の良さ。
その娘は「病気である自分」にまでも依存していった。
彼女の心は一見ぐちゃぐちゃで難しく見えるけども、
客観的に冷静に紐解いていけば簡単なのだ。
その紐の両端には2つの「想い」があるだけだ。
『愛したい』 ------------- 『愛されたい』
あたしはそんな彼女が歯痒かった。
それと同時に愛し愛されたい欲求をわざわざ難しく表現してしまう彼女を愛しく想い、
依存することでしか自分を愛せない彼女を可哀想に想った。
彼女はあたしの中で友達として「愛」すべき存在だった。
自分を「愛」したいがゆえに人を試してしまう。
「愛」されたいがために自分を嫌いになる。
彼女と話してて、いろんな「愛」を想った。
あたしは心の病気を治すプロではない。
だから正しいとか間違ってるなど彼女に偉そうなことは言えない。
あたしも自分の心に蓋をして見ないふりしたい日だってある。
手放しで自分を「愛」してるか、と言えば、そうではない。
だから少し、距離を置くことにした。
この選択は「逃げ」では無いとあたしは思っている。
「支える人」がいる限り、彼女は一生寄りかかるだろう。
「自分で歩かなきゃいけないこと」に彼女自身が気付かなければ彼女の哀しみは消えない。
いつの日か、また会えたとき、
彼女の口から零れる音符達が「哀しい音楽」を奏でていなかったら。
あたしは歌いたいと思う、とびきり大きな声で。
「愛」とはたぶんそーゆうものだ。