好きな人のこと好き過ぎて。
最近では恋とか愛とかすっ飛んでいってしまった。
恋とか愛とかそーゆう次元をゆうに超えてしまったような。
ぶっちゃけもう何を「恋」と言っていいやら、どこから「愛」と言っていいのやら。
さださん家のまさし君が昔こう言ってたなー。
『 求め続けていくものが恋 奪うのが恋
与え続けていくものが愛 変わらぬ愛
だからありったけの想いをあなたに
投げ続けられたら それだけでいい 』
でもさーある種の自己満足だよねコレ。
(※さださん大好きです)
だって、いくら「愛」だからって投げ続けられたらたまんねぇ。
あたしはやっぱホドホドがいいな。
「恋」も「愛」もどちらもホドホド。
「恋」「愛」を絶妙なバランス感覚で求めたいし与えたい。
与えることも大事だし求めることも同じくらい大事だと思うから。
感情に喜怒哀楽があるように、恋愛の喜怒哀楽も必要不可欠。
いくら「愛」してるからって、恋人が浮気してんの黙って見てらんねぇ。
「ボクが好きだからそれでいいんです」って与え続ける愛?
なに、お前ぇそんなの違くねぇ?
それちょっと人として感情死んでねぇ?
ちょっ待て、とりあえず、あたしん家来てサシで話さない?ってなる。
って感じで、最近では特に「愛」についていろいろ考える。
あたしの今まで生きて得てきた愛についての「想い」とか「情報」とか「(数少ない)経験」を。
そういうもの全てを頭の中で総動員してぐにぐにこねくり回して「本物の愛とは」を考える。
「心」は目に見えないけど確かに存在してる。
「恋」も「愛」も目に見えないけど確かに、確かに存在してる。
あたしは「愛」について考えるとき、いつもある友達のことを思い出す。
あたしの友達で「恋に恋してる自分を愛してる」娘がいた。
文字にするとなんだかややこしいけど。
その娘は「自分のこと大嫌い病」だった。
親や恋人に「どれだけあなたに愛されてるか」って試すようなことばっかする娘だった。
その娘の口癖は「死にたい」だった。
でも同時にその「死にたい」は「淋しい」も意味してた。
自分が愛されてる自信が無くて、「あたしのこと愛してるなら助けてよ」ってよく人を試す。
「愛されてるか」確かめるためなら、カミソリも、薬も、武器にする娘だった。
その娘は恋人に「あたしは病気、あなたに迷惑かけたくない、だから別れよう」って言った。
でもそれは恋人の気持ちを試す言葉だった。
その娘は恋人が「自分から離れていかない」ということをよく分かっていた。
分かっててわざと聞いていた。
でもその娘は自分の心に蓋をして見ないふりをした。
誤解の無いように言うけど、あたしは彼女を責めてる訳じゃない。
ただその娘は、無意識でそういうことをしてしまう、そういう「病気」だった。
親にも恋人にも「愛されてる」のを確認するために自殺を仄めかす娘だった。
そのうち親や恋人だけじゃあ足らなくていつしか友達にも「依存」するようになっていった。
どれ程の薬を飲めば確実に死ねるか、と質問されたし、
時にその娘は、あたしに手首を切った写メールを送ってきたりした。
その血はあたしが今まで見てきた血の中でも、もっとも哀しい色をしていた。
彼女の哀しさ、不安、空虚感、全てを織り交ぜた懐かしい色にあたしは泣いた。
あたし自身、昔、そういう時期があったからその娘の痛みは手に取るように分かった。
その娘は自分の憂鬱な状態がどんなものか、を、嬉々として語った。
そして、やけに「つらい話」をしたがった。
自分が今どんな状態で、どんなにキツイか、を感情を込めて何時間でも話した。
あたしは吐き出されたその「言葉達」が空を舞うのを何時間でもただ見つめ続けていた。
空中に吐き捨てられる「哀しい音楽」の音符達。
そしてあたしはそれをただ抱きしめ続けた。
「病気である自分」は人から心配される。
「心配される自分」=「愛されてる自分」の居心地の良さ。
その娘は「病気である自分」にまでも依存していった。
彼女の心は一見ぐちゃぐちゃで難しく見えるけども、
客観的に冷静に紐解いていけば簡単なのだ。
その紐の両端には2つの「想い」があるだけだ。
『愛したい』 ------------- 『愛されたい』
あたしはそんな彼女が歯痒かった。
それと同時に愛し愛されたい欲求をわざわざ難しく表現してしまう彼女を愛しく想い、
依存することでしか自分を愛せない彼女を可哀想に想った。
彼女はあたしの中で友達として「愛」すべき存在だった。
自分を「愛」したいがゆえに人を試してしまう。
「愛」されたいがために自分を嫌いになる。
彼女と話してて、いろんな「愛」を想った。
あたしは心の病気を治すプロではない。
だから正しいとか間違ってるなど彼女に偉そうなことは言えない。
あたしも自分の心に蓋をして見ないふりしたい日だってある。
手放しで自分を「愛」してるか、と言えば、そうではない。
だから少し、距離を置くことにした。
この選択は「逃げ」では無いとあたしは思っている。
「支える人」がいる限り、彼女は一生寄りかかるだろう。
「自分で歩かなきゃいけないこと」に彼女自身が気付かなければ彼女の哀しみは消えない。
いつの日か、また会えたとき、
彼女の口から零れる音符達が「哀しい音楽」を奏でていなかったら。
あたしは歌いたいと思う、とびきり大きな声で。
「愛」とはたぶんそーゆうものだ。
最近では恋とか愛とかすっ飛んでいってしまった。
恋とか愛とかそーゆう次元をゆうに超えてしまったような。
ぶっちゃけもう何を「恋」と言っていいやら、どこから「愛」と言っていいのやら。
さださん家のまさし君が昔こう言ってたなー。
『 求め続けていくものが恋 奪うのが恋
与え続けていくものが愛 変わらぬ愛
だからありったけの想いをあなたに
投げ続けられたら それだけでいい 』
でもさーある種の自己満足だよねコレ。
(※さださん大好きです)
だって、いくら「愛」だからって投げ続けられたらたまんねぇ。
あたしはやっぱホドホドがいいな。
「恋」も「愛」もどちらもホドホド。
「恋」「愛」を絶妙なバランス感覚で求めたいし与えたい。
与えることも大事だし求めることも同じくらい大事だと思うから。
感情に喜怒哀楽があるように、恋愛の喜怒哀楽も必要不可欠。
いくら「愛」してるからって、恋人が浮気してんの黙って見てらんねぇ。
「ボクが好きだからそれでいいんです」って与え続ける愛?
なに、お前ぇそんなの違くねぇ?
それちょっと人として感情死んでねぇ?
ちょっ待て、とりあえず、あたしん家来てサシで話さない?ってなる。
って感じで、最近では特に「愛」についていろいろ考える。
あたしの今まで生きて得てきた愛についての「想い」とか「情報」とか「(数少ない)経験」を。
そういうもの全てを頭の中で総動員してぐにぐにこねくり回して「本物の愛とは」を考える。
「心」は目に見えないけど確かに存在してる。
「恋」も「愛」も目に見えないけど確かに、確かに存在してる。
あたしは「愛」について考えるとき、いつもある友達のことを思い出す。
あたしの友達で「恋に恋してる自分を愛してる」娘がいた。
文字にするとなんだかややこしいけど。
その娘は「自分のこと大嫌い病」だった。
親や恋人に「どれだけあなたに愛されてるか」って試すようなことばっかする娘だった。
その娘の口癖は「死にたい」だった。
でも同時にその「死にたい」は「淋しい」も意味してた。
自分が愛されてる自信が無くて、「あたしのこと愛してるなら助けてよ」ってよく人を試す。
「愛されてるか」確かめるためなら、カミソリも、薬も、武器にする娘だった。
その娘は恋人に「あたしは病気、あなたに迷惑かけたくない、だから別れよう」って言った。
でもそれは恋人の気持ちを試す言葉だった。
その娘は恋人が「自分から離れていかない」ということをよく分かっていた。
分かっててわざと聞いていた。
でもその娘は自分の心に蓋をして見ないふりをした。
誤解の無いように言うけど、あたしは彼女を責めてる訳じゃない。
ただその娘は、無意識でそういうことをしてしまう、そういう「病気」だった。
親にも恋人にも「愛されてる」のを確認するために自殺を仄めかす娘だった。
そのうち親や恋人だけじゃあ足らなくていつしか友達にも「依存」するようになっていった。
どれ程の薬を飲めば確実に死ねるか、と質問されたし、
時にその娘は、あたしに手首を切った写メールを送ってきたりした。
その血はあたしが今まで見てきた血の中でも、もっとも哀しい色をしていた。
彼女の哀しさ、不安、空虚感、全てを織り交ぜた懐かしい色にあたしは泣いた。
あたし自身、昔、そういう時期があったからその娘の痛みは手に取るように分かった。
その娘は自分の憂鬱な状態がどんなものか、を、嬉々として語った。
そして、やけに「つらい話」をしたがった。
自分が今どんな状態で、どんなにキツイか、を感情を込めて何時間でも話した。
あたしは吐き出されたその「言葉達」が空を舞うのを何時間でもただ見つめ続けていた。
空中に吐き捨てられる「哀しい音楽」の音符達。
そしてあたしはそれをただ抱きしめ続けた。
「病気である自分」は人から心配される。
「心配される自分」=「愛されてる自分」の居心地の良さ。
その娘は「病気である自分」にまでも依存していった。
彼女の心は一見ぐちゃぐちゃで難しく見えるけども、
客観的に冷静に紐解いていけば簡単なのだ。
その紐の両端には2つの「想い」があるだけだ。
『愛したい』 ------------- 『愛されたい』
あたしはそんな彼女が歯痒かった。
それと同時に愛し愛されたい欲求をわざわざ難しく表現してしまう彼女を愛しく想い、
依存することでしか自分を愛せない彼女を可哀想に想った。
彼女はあたしの中で友達として「愛」すべき存在だった。
自分を「愛」したいがゆえに人を試してしまう。
「愛」されたいがために自分を嫌いになる。
彼女と話してて、いろんな「愛」を想った。
あたしは心の病気を治すプロではない。
だから正しいとか間違ってるなど彼女に偉そうなことは言えない。
あたしも自分の心に蓋をして見ないふりしたい日だってある。
手放しで自分を「愛」してるか、と言えば、そうではない。
だから少し、距離を置くことにした。
この選択は「逃げ」では無いとあたしは思っている。
「支える人」がいる限り、彼女は一生寄りかかるだろう。
「自分で歩かなきゃいけないこと」に彼女自身が気付かなければ彼女の哀しみは消えない。
いつの日か、また会えたとき、
彼女の口から零れる音符達が「哀しい音楽」を奏でていなかったら。
あたしは歌いたいと思う、とびきり大きな声で。
「愛」とはたぶんそーゆうものだ。
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