5月の終わりに、ほんの少し、入院した。
色、空気、見た場面、聞いた状況、想い、覚えていること、すべてを綴っておこう。
今思えば、ことの始まりは、
いつも、ごく自然にあたしの日常に溶け込んでやってくる、この声だった。
「あとは俺が、どうにかしてやる。死なせてやるよ。」
と言う男の声。
男は壁に潜み、あたしに語りかけた。
そして、時に天井から囁き、時に枕から誘惑した。
男の毒があたしの中の自制心や道徳や常識を、とろん。と溶かしてしまった。
あたしは自分の体から押し出された。
目の前に見えるのは、あたしが居なくなった「あたし」だった。
床に座って、誰かに追い立てられてるかのように、急いで、薬をプチプチ出している光景。
真っ暗な部屋で、真っ白い薬の粒と、青白い顔のあたしだけがポカンと浮かんで見えた。
床で軽やかに弾んでパラパラ散らばる白い粒を、かき集めて飲む。
それを何度も繰り返した。
部屋の空気は冷たくて、寒かった。
そのあとの記憶はお風呂場。
お薬を大量に飲んだあとのぶるぶる震えている手で、手を切った。
そして水に沈めた。
勢いよく出て、ゆらゆら漂った。
見えるのは月の明かりでテロテロ輝く水面と、手から出るモノ、だけだった。
不気味だった。
そのあとの記憶は病院のベッド。
お母さんの話によると。
お薬を大量に飲んで、お風呂場で血を流しているあたしをすぐ近くの病院に運んだ、らしい。
ベッドで目が覚めた時、周りは、とても白くて、とても眩しかった。
腕には点滴。
股にはチューブ。
胸には心電図のコード。
なんだか、その他、出処の分からない、色々な管に繋がれてた。
病院のICUだった。
誰かと何かを話したような気がする。
結局、記憶がシャンとしたのは、死のうとした日から2日後だった。
あたしの意識が戻ってから、メガネをかけた女の先生が来て、病状の説明をしてくれた。
大量服薬の処置で胃洗浄をした。ということ。
それでも変化が見られず、意識が戻らなかった。ということ。
経過を見るためのICU入院だ。ということ。
検査の結果、肺炎にかかっている。ということ。
ICUを出たら、そのまま内科に入院してください。ということ。
ぽやっとした頭で考え、野放しに「そのまま、退院したい。」と告げたが、先生の答えはノー。
運ばれた病院は、かかりつけの大学病院ではなく、家の近くの病院だった。
それが分かった時、あたしは、少し、ほっとした。
死に損なったなんて、本当の主治医には知られたくなかったからだ。
3日くらいベッドで寝たきりで、ICUから出た時は、うまく歩けなかった。
車イスに乗せられ、運ばれ、そのまま内科に入院した。
この病院に精神科は無かった。
病室は4人部屋だった。
でも長いカーテンで完全にひとつひとつきれいに仕切られていて、
隣の住人はおろか、前のベッドの住人すら、最後まで顔を合わすことは無かった。
精神科の閉鎖病棟ではありえないことだ、と思ったが、
あ、こっちがいわゆる「普通」なんだ、と思い直した。
白い廊下に柔らかい水色のラインが引かれていて、病室のカーテンはベビーピンク。
あたしにはもったいない、とても可愛いらしい病院だと思った。
かかりつけの大学病院の閉鎖病棟もこれくらい柔らかい印象にすればいいのに、と思った。
内科での新しい主治医に再度、「退院させて。」と告げたが、答えは、やはりノーだった。
「肺に炎症が起きてて、今はまだ、抗生物質の点滴が必要だから。」の一点張り。
あたしの意識が落ち着いた日は、お父さんの誕生日だった。
病室でケーキで乾杯をした。
あたしは本当に親不孝者だと自分を呪った。
疲れていた精神に、モンブランの甘さが馬鹿に沁みた。
入院中、夜眠ると、必ず悪夢を見た。
それはさまざまだったが、どれも全て、あたしの心情が滲み出ている夢ばかりだった。
赤く、ゆらゆら揺れる何本もの手に追い回されたり、
ポコッと空いた大きな黒い口に呑み込まれたり、
去ってしまった、大好きな白い後ろ姿だった。
今のあたしには、「大好きな白い後ろ姿」すら、ある意味 悪夢だった。
男の声は、ふとした瞬間に聴こえた。
「死なせてやるよ。」と約束したくせに、「死に損ない。」だと、あたしを笑った。
数日間、交渉をして、退院の許可をもらった。
条件はみっつ。
今から肺のレントゲンと血液検査をして、結果が前より良くなっていること。
かかりつけの大学病院で引き続き肺炎を診てもらうこと。
退院後、抗生物質のお薬をちゃんと飲むこと。
先生は、渋々だった。
それを笑うかの様に、検査の結果は、前より、だいぶ良くなっていた。
退院する時に、抗生物質のお薬と、大学病院の主治医に渡す封筒を受け取った。
優しく、いろいろ教えてくれた看護師さんに、「ありがとう」と書いた手紙を残した。
そして、あたしは、白と水色とピンクで彩られた可愛い病院を退院した。
外の世界は、梅雨空で、あたしが好きな雨の匂いが、ぽわん。と漂っていた。